退団後の活躍の大浦みずき
退団後も女優として活動。
特筆すべきは1992年の宝塚ニューヨーク(ジョイス・シアター)で、海外公演初めて、例外的に現役生21名と共に大浦がメインとして舞台に上がりました。宝塚の公演で卒業生(外部の女優)がセンターをとる、という異例の大役を成し遂げたわけです。これは現役時代と遜色ないステージだったと言われています。
今から10年ぐらい前、管理人・すみれ子の趣味でアルゼンチンタンゴを聴きに行った時、バンドネオン奏者の方から思いもかけず「大浦みずき」の名を聞きました。
「あぁ、ナツメさんですね」と宝塚の舞台を観ていたことなどを、そのバンドネオン奏者に話すとナツメさん(大浦)はタンゴを歌ったり、踊ったりしていて近々共演したいね、と話していると聞きました。
「実現したら行きたいです!」と私は答えました。
・・・でも実現しませんでした。
それからしばらくしてナツメさんの訃報を耳にしました。
ナツメさんは2009年11月14日午前7時、肺癌のため東京都内の病院で53歳という若さで死去されました。
正直なところ・・・えっ?という思いと驚きを今も覚えています。
でもナツメさんの築いた「ダンスの花組」、花組的男役の美学はずっと受け継がれ今もなお花組生の中に残っていること、毎回公演を見て思い出しています。
大浦みずきという人
ナツメさんは非常に下級生からも慕われたエピソードがたくさんあります。
真矢みきさんは「一緒に退団したいと口にしたら、『あなたがトップにならなくてどうするの』と大浦さんに一喝された」そうです。
大浦さんを偲び集まった花組OGの皆さんの↓の映像を見ればそれがわかるような気がします。
↓↓大浦みずき様へ 花組OG38人「心の翼」
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エッセイスト、阿川佐和子さんは・・・
お別れの会で弔辞を読んだ阿川は「団地仲間で、まさか幼なじみの弔辞を読むのが“なっちん”だなんて思ってもいなかった。私と会う時はスターという顔を見せてくれませんでした。ちょっと早すぎやしないかと思い、悔しくてたまりません。もうすぐ、私もそっちにいきます。泣かずに読めましたよ」
(http://www.oricon.co.jp/)
舞台での共演経験がある別所哲也さん・・・
「僕がタンゴを踊れないのに、踊れるようにリードしてくれた。疲れやつらいところを見せない人でしたね。天国でゆっくり休んでください」とコメント。そのほか、春野寿美礼やえまおなど関係者も取材に応じ、偉大なスターの死を惜しんでいた。
(http://www.oricon.co.jp/)
などのコメントからもナツメさんが周囲の人達に慕われる存在であったこと、伝わりますね。
ダンスの花組
102年の歴史の間に宝塚にはたくさんのスターが生まれ、たくさんの宝塚の芸というべき財産を残して来ました。
花組が「ダンスの花組」と呼ばれるまでには、それ以前にも素晴らしいダンサーやスターさんがいたからであるのは・・・
でも書いたことですが、今「ダンスの花組」と断言して呼べるのは、やはりナツメさん、こと大浦みずきさんが築いたダンスの世界があったから、そしてそれに学んだ下級生達がその世界を受け継ぎ、また次の世界へと伝えてきたからこそでしょう。
花組の歴史、ダンスの花組と言われる所以を探っていて大浦さんのことだけは別に綴りたくなりました。
この記事と併せて 宝塚歌劇ダンスの花組の歴史を探る、魅力と歴代トップスター達 もご覧ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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