宝塚の中で最も歴史ある花組、そして「ダンスの花組」という異名をとる花組で、宝塚のフレッド・アステアと呼ばれた伝説の名ダンサーをご存知でしょうか?
その人は1987年12月31日から1991年11月29日まで花組トップスターとして活躍した大浦 みずき(おおうら みずき)さんです。
花組の歴史をたどって 宝塚歌劇ダンスの花組の歴史を探る、魅力と歴代トップスター達 を書いたら、大浦みずきさんが今のダンスの花組に至るまでに残した物の大きさに気づき、ナツメさん(大浦みずき)の足跡をたどることにしました。
大浦みずきさんとは?
ダンスの花組を築いた大浦みずきの略歴
さて大浦みずきさんとは・・・
1972年、宝塚音楽学校入学。1974年、宝塚歌劇団入団の60期生。『虞美人』で初舞台、入団時の成績は3番。
大浦みずきさんの父は童謡「さっちゃん」の作詞をされた小説家・阪田寛夫氏。
ちょうどナツメさん(大浦)が雪組に在籍していた頃が私の第一次宝塚ファン時代だったので、下級生時代の舞台はよくみていました。
当時としては身長もあり、スタイルの良い生徒さんという記憶はありますが、後日そんなにも素晴らしいトップスターさんになられるとは思ってもみない、少し控えめな存在でした。
それが宝塚のフレッド・アステアと異名をとるダンスの名手として活躍されるようになった時は、宝塚ファンならではの「あの下級生だった大浦さんがねぇ・・・」と成長を嬉しいことに感じられました。
雪組から星組に組み替え。そして1983年に花組へ組み替え後、高汐 巴(たかしおともえ)さんの後を継いで1988年 『キス・ミー・ケイト』で花組トップスターになります。
↓↓「キス・ミー・ケイト」稽古場風景と初日公演(Mizuki Oura)
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↓↓大浦みずきさん
(出典:http://blogs.yahoo.co.jp/)
下級生時代からダンサーでしたが、二番手時代には膝の半月板損傷・手術により長期休演を余儀なくされましたが、復帰後はさらにダンスの腕に磨きがかかり、花組が今現在も「ダンスの花組」と呼ばれる礎となる一時期を築いた人です。
1989年『会議は踊る』、1990年『ベルサイユのばら』(フェルゼン役)に主演。
↓↓ベルサイユのばら’90 花組フィナーレ
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1991年6月~8月 『ヴェネチアの紋章』を持って宝塚を退団。以後も様々な舞台で活躍されました。
↓↓『ヴェネチアの紋章』ユーリーミハイルコフ(Mizuki Oura)
このダンスシーンはすごいです!
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今もナツメさんの演じたシーンとして名高いのは、『メモアール・ド・パリ』の「パッシィの館」。おそらく演出は違うとは思いますが『シトラスの風』にも登場するシーンですね。
↓↓メモアール・ド・パリ「全編」(Mizuki Oura)
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↓↓ 2. 退団後の活躍
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